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エルヴィス・プレスリーの米寿を祝った! 湯川れい子さんも参加して、『アロハ・フロム・ハワイ』を50周年記念上映

ph1(左から)湯川れい子さん、牛窪成弘さん、ビリー諸川さん(撮影:早野寛)

 2023年1月8日はエルヴィス・プレスリーがこの世に生を受けてから88回目の誕生日。そのロックンロールの王様エルヴィスの“米寿”を祝うために、東京の日本橋公会堂で開かれたイベント「生誕祭」に多くのファンたちが集った。

 「生誕祭」ではライブ映像『アロハ・フロム・ハワイ』の50周年記念の上映が行われ、エルヴィスの力のこもったパフォーマンスを楽しんだ。
 大のエルヴィス・ファンとして知られる音楽評論家・作詞家の湯川れい子さんも登場。

 湯川さんは、放送ディレクター&プロデューサーで、ハワイでの世界衛星中継ライブを実現させた立役者の一人だった牛窪成弘(うしくぼ・しげひろ)さんとコンサート実現までの裏話などを語り合った。司会はエルヴィスについて造詣が深く『50年代のエルヴィス全曲』などの著作があるミュージシャンのビリー諸川さんが務めた。

 まず、昨年公開されて大ヒットを記録している映画『エルヴィス』について湯川さんは「初めてエルヴィスのことを掘り下げて描いてくれました。これまで日本ではエルヴィスについてあまりにも理解されてこなかったのです」と語った。

 湯川さんは続けて「半世紀以上も前にエルヴィスがやったことがどれだけすごかったのかを映画を観て初めて分かってもらえたと思います」と述べた。「音楽ファンでもたぶん80%くらいはエルヴィスのことを知らなかったと思いますが、映画のおかげで、若い人にも知られるようになったので、とてもうれしいです」(湯川さん)。

 日本にロックが入ってきたのは1964年のビートルズからだといわれる。1950年代からアメリカで活躍していたエルヴィスがどうして日本に入ってこなかったのか?

 ビートルズの4人は、まだ階級制度が色濃く残るイギリスの港町リバプールで誕生し、エルヴィスを聴いたことでロックに目覚めた。「あれだけの田舎で才能ある4人が集まったということは奇跡」だと湯川さん。「メンフィスからリバプールに飛び火したのです」。

 1950年代、海底ケーブルなどなく、テレビも普及しておらず、日本ではエルヴィスの情報は映画館にかかる白黒のニュース映像ぐらいだったと湯川さんは振り返る。

 それに比べ、ビートルズが日本に入って来た1964年は東京五輪が開催された年。この10年近くの時間差による技術進歩などの変化は大きかったという。

 ちなみに64年当時、エルヴィスはハリウッドとの長期にわたる映画契約に縛られてしまって、青春映画を撮っている時期だった。「だから、その当時に1950年代のエルヴィスについて説明しても全く分かってもらえなかったのです」と湯川さんはいう。

 『アロハ・フロム・ハワイ』は日本サイドの努力なしには実現しなかった衛星中継ライブだった。牛窪さんは「1972年の春頃に(レコード会社RCAから)話が来ました。そこで電通のキーマンに話をしたのです。数カ月後、日本テレビでやることになったと連絡が来ました。当時、日テレはテレビ局では断トツでした」と回想した。

 「こんなにすごい話はない。ハワイからの生中継だから面白い。僕の感覚では必ずモノになると思いました。ただし、大きなリスクが2つありました。まずは莫大(ばくだい)なお金を集めなければいけないこと。それと衛星回線のリスクがありました」。

 日本での現地公演は実現せず、ハワイになったのには隠れた理由があった。湯川さんは説明した。「(マネージャーの)トム・パーカー大佐は自分がパスポートを持っていないことをひた隠しにするため、エルヴィスにはアメリカ国内でしかコンサートをやらせなかったのです。でもハワイならば(アメリカだし)日本に一番近いから実現しました」。

 牛窪さんはパーカー大佐とも直に接触していた。「日本への中継がなければ実現しなかったでしょう」。そして、パーカー大佐のおかげでアメリカの放送テレビネットワークNBCが100万ドル出し、日本側は73万ドルを用立てることになったという。

 ホノルル・インターナショナル・シアターでのライブが実現したのは1973年1月14日のこと。エルヴィスは38才。衛星生中継されたのは日本、豪州、韓国、香港、フィリピン、南ベトナム。本国アメリカで放送されたのは4月になってからだった。「だから世界中で15億人が見たという(映画でも紹介された)情報は間違いです」と湯川さんは語った。

 セットリストが分かったのは本番の30分くらい前で、パーカー大佐から鉛筆書きの紙を渡されたという。「Subject to change」(変更あり)と書いてあったが、テレビの画面に曲名を出さなければいけないので、急いで用意したと牛窪さんはいう。「実際、変更になった曲があって、字幕スーパーが遅れたが、最悪、曲名が落ちても画が落ちなければいいと思っていました」と牛窪さんは“腹を決めた”当時を語った。

 コンサートは「シー・シー・ライダー」で始まり、「マイ・ウェイ」、「ブルー・スエード・シューズ」、「ハウンド・ドッグ」、「フィーバー」、「サスピシャス・マインド」、「アメリカの祈り」などを歌って、「好きにならずにいられない」で締めくくられた

 パーカー大佐から「my friend」と呼ばれていた牛窪さんはライブ終了後にかけられた言葉を今も忘れない。「You should be happy in Japan」つまり「日本ではみんなご機嫌だろう」。

 日本側スタッフは牛窪さんを含めて4人だった。コンサートが終わった後に、NBCとRCAからの要請で、アメリカでの放送用にエルヴィスは5曲を追加収録した。それが終わったのは深夜2時ごろ。ホテルに帰ると、チーフ・プロデューサーの後藤達彦さんがあまりの緊張状態から解放されたためか、倒れてしまい、救急車で運ばれてしまった。

 最後に話は日本における洋楽事情に移った。牛窪さんは「アメリカのポピュラー・ミュージックをもう一度、いいものを復活させて若い人たちに聞いてもらいたい」という。

 湯川さんは「音楽には共感と平和しかありません。よその国の音楽を聞くということは平和活動なのです。“洋楽を聞く会”をつくろうと頑張っている人たちもいます。エルヴィスを真っ当に聞いてもらう機会をつくっていきたいのです」と述べた。

 「エルヴィスが一つの突破口になってくれればと思っています。僕の一番好きなエルヴィスのナンバーは「Stranger in the Crowd」です。最高のシンガー。そういうエルヴィスが一番魅力的なのです」と牛窪さんは締めくくった。

「エルヴィス生誕祭」ポスター
「エルヴィス生誕祭」ポスター