カルチャー

【スピリチュアル・ビートルズ】 男性にも惹かれていたジョン・レノン 性的少数者(LGBT)とビートルたち

ポールがジョンを追悼して作った「ヒア・トゥディ」が収録された『タッグ・オブ・ウォー』。
ポールがジョンを追悼して作った「ヒア・トゥディ」が収録された『タッグ・オブ・ウォー』。

 ジョン・レノンは男性にも惹(ひ)かれていた。彼の妻オノ・ヨーコが明らかにした。

 新興ニュースサイト「デイリー・ビースト」との2015年のインタビューでヨーコはLGBTといわれる性的少数者への支持を明らかにするとともに、ジョンが男性にも「欲望を感じていたと思う」と語った。ただし、「自分(ジョン自身)には強く禁じていた」という。

 LGBTとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(心と体の性が一致しない人)、の英語の頭文字をとった言い方で、いわゆる性的少数者のことである。彼らへの理解が国内外で次第に進んでいる。

 国際レズビアン・ゲイ協会によると、成人の同性が同意のうえで行う性的行為を有罪としている国の数は、2006年には93か国だったのが、2015年5月までに76カ国に減少したという。減ったとはいえ、現在でも世界の三分の一以上の国が同性の性的行為を違法としていることになる。最高罰が死刑の国もある。

 ここ日本でも、2015年11月、東京都渋谷区が、同性のカップルを結婚に相当する「パートナーシップ」と認める証明書の交付を始めた。これは全国初となる自治体独自の取り組みでLGBTへの差別解消を狙った動きだ。

 ビートルズの英国でのレコードデビュー前からのマネジャーであり「5人目のビートルズ」ともいわれる故ブライアン・エプスタイン氏がゲイで、特にジョンに惹かれていたことは周知の事実である。ヨーコは、「ブライアンはジョンを口説こうとしただろうと確信していますが、ジョンは関係を持ちたくなかったんだと思います」と言う。

 63年にジョンはブライアンとともにスペインに休暇旅行をした。その際に二人の間に性的関係があったのではないか、2人はホモの関係ではないかと長らく噂されてきた。それについてジョン自身は次のように語っていた。「情事はなかった」、「ブライアンが男の子たちをひっかけるのを見物していましたよ」(「レノン・リメンバーズ」草思社)。

 2015年、日本で『ザ・フィフス・ビートル ブライアン・エプスタイン・ストーリー』(ジュリアン・パブリッシング)という漫画が刊行された。ヴィヴェック・J・ティクリー原作の、ビートルズとともに歩んだブライアンの人生を描いた作品である。

 同作品は、ブライアンがゲイだということを隠していないだけでなく、ブライアンと同性とのセックス描写も登場する。キリスト教の影響下で同性愛禁止法があった英国で、ゲイであったブライアンは自分の性的嗜好を隠さなければならぬプレッシャー、そしてもちろん「ビートルズ帝国」を管理する圧力、その両方に追い込まれてか、睡眠薬の過剰摂取によって事故死してしまった。67年のことだ。まだ32歳の若さであった。

『60’s(シックスティーズ) 伝説のロック・アーティスト――リンダ・マッカートニー写真集』(プロデュースセンター出版局 刊)には、ジョンとポールの仲むつまじい様子が収められている。
『60’s(シックスティーズ) 伝説のロック・アーティスト――リンダ・マッカートニー写真集』(プロデュースセンター出版局 刊)には、ジョンとポールの仲むつまじい様子が収められている。

 ビートルズがコンサートツアーを66年8月に止めてからは、ブライアンの仕事はほとんどなくなってしまっていたともいわれる。その苦悩も彼の死の背景にあるようだ。

 一方、ジョンとポール・マッカートニーが「同性愛」的感情で結ばれていたと指摘する向きもある。そのひとつとして、彼ら二人の歌がそれぞれに対する「相聞歌」だという分析を披露した喜山荘一氏が著した『ビートルズ二重の主旋律―ジョンとポールの相聞歌』(メタ・ブレーン)という本がある。

 ちなみに相聞歌とは「恋人同士の間で詠み交わされた歌」のことで、日本の万葉集にも相聞歌がいくつも収められている。

『ビートルズ二重の主旋律―ジョンとポールの相聞歌』(喜山荘一著/メタ・ブレーン刊)
『ビートルズ二重の主旋律―ジョンとポールの相聞歌』(喜山荘一著/メタ・ブレーン刊)

 喜山氏は、ビートルズの作品を「ジョンとポールのふたりが、お互いの恋愛にも似た友情の純粋感情をぶつけあったものとして聴きほぐしました」という。

 例えば、ポールが「ラブ・ミー・ドゥ」、「P.S.アイ・ラブ・ユー」で「告白」をしたならば、ジョンが「プリーズ・プリーズ・ミー」すなわち「どうか僕を喜ばせておくれ」と応じるなど、彼らの歌がそれぞれ呼応しあっていたというのだ。

 二人が袂を分かった70年以降も、二人の秘めた、時にはあからさまな「やりとり」が、彼らの歌や発言を通して続くことになる。

 ビジネス面や互いの生き方に関して対立することもあったジョンとポール。だが二人が本当に愛しあっていた、いや今も愛しあっていることを疑う人はもういないだろう。

 ジョンは、80年12月8日の凶弾に倒れる数時間前に行われた文字通りのラストインタビューで、「今まで一緒に一夜限りでなく仕事をできたアーティストというのは二人しかいない。それはポールとヨーコだ。この二人は、最高に素晴らしいチョイスだった。(ビートルズに関しては)ぼく自身がその才能を見抜いて本当に仲間に入れようとしたのはポールだけだ」(「宝島臨時増刊号John Ono Lennon」JICC出版局)と語った。

赤裸々にその生涯を描いた『ザ・フィフス・ビートル ブライアン・エプスタイン・ストーリー』(ヴィヴェック・J・ティワリー著/ジュリアン・パブリッシング刊)。
赤裸々にその生涯を描いた『ザ・フィフス・ビートル ブライアン・エプスタイン・ストーリー』(ヴィヴェック・J・ティワリー著/ジュリアン・パブリッシング刊)。

 ジョンの死後、ポールが彼を追悼して作った歌が「ヒア・トゥディ」(82年)である。ポールは歌った。「君を愛している」、「ぼくらは世の中のことを何一つわからなかったけれど、いつだって歌うことが出来た」、「君はぼくの歌の中にいてくれる」と。

 (文・桑原 亘之介)


桑原亘之介

kuwabara.konosuke

1963年 東京都生まれ。ビートルズを初めて聴き、ファンになってから40年近くになる。時が経っても彼らの歌たちの輝きは衰えるどころか、ますます光を放ち、人生の大きな支えであり続けている。誤解を恐れずにいえば、私にとってビートルズとは「宗教」のようなものなのである。それは、幸せなときも、辛く涙したいときでも、いつでも心にあり、人生の道標であり、指針であり、心のよりどころであり、目標であり続けているからだ。
 本コラムは、ビートルズそして4人のビートルたちが宗教や神や信仰や真理や愛などについてどうとらえていたのかを考え、そこから何かを学べないかというささやかな試みである。時にはニュースなビートルズ、エッチなビートルズ?もお届けしたい。