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ロシア、ウクライナを自らの心身で知る加藤登紀子さん 新刊「百万本のバラ物語」に込めた思いとは

加藤登紀子さん
加藤登紀子さん

 「百万本のバラ」という歌がある。貧しい画家の女優への一途な愛についての歌。それがいつの間にか翼を得て、時間を超え、国境を越え、飛んでいる。この歌の舞台であるロシアやウクライナを自らの心身でもって知っているシンガー・ソングライター、加藤登紀子さんが著書『百万本のバラ物語』(光文社)を出版した。

 「今こそ伝えたいことがいっぱいで、そのあふれる思いをこの本に書きました。何よりの思いは、早く戦争を終わらせてほしい、ということです。戦争に勝者はいない、のです。どちらの国も戦争による犠牲者を生むだけ。私自身の戦争体験で、十分知っています」と加藤登紀子さんは、この著書に込めた思いについて語る。

『百万本のバラ物語』(加藤登紀子著・光文社)
『百万本のバラ物語』(加藤登紀子著・光文社)

 「日本が戦争をしない国、と決めてきたメリットが、大きいことも知ってほしいです。憲法9条が大きな役割を果たしてきたのです。今こそ思い出してほしい」。

 1971年に始まった「ほろ酔いコンサート」。加藤登紀子さんがお酒を片手に歌う、そのコンサートの2022年の締めくくりは12月27日にヒューリックホール東京で行われた。加藤登紀子さんの79才の誕生日だった。

 ハイライトは、やはりコンサート本編最後に歌われた「百万本のバラ」だった。その前に、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの「イマジン」が日本語詞を交えて歌われた。さらに反戦フォークソング「花はどこへ行った」。アンコール本編最後は、ジョンの「パワー・トゥ・ザ・ピープル」。加藤登紀子さんの思いがひしひしと伝わってきた。

 「百万本のバラ」のもとになったのは、1981年にラトビアで作られた子守歌「マーラが与えた人生」だ。「マーラ」はキリスト教の女神の名前で、宗教が否定されていたソ連では、そのタイトル自体にプロテストの意味が込められていたのではないかという。

 独立を求めたラトビアは、1917年のロシア革命後にソ連軍と戦って勝利し、翌年に独立国になった。しかし、国際情勢に翻弄される。1939年、ソ連とナチスドイツの密約によって、ソ連軍がラトビアなどのバルト3国に侵攻。1942年にはドイツも参戦し、ラトビア軍は敗北。再び、ソ連の支配下に置かれることになった。

 ラトビアの詩人レオンス・ブリエディスのオリジナル歌詞をロシア語に翻訳したのは、ソ連体制に批判的だったアンドレイ・ボズネセンスキーだった。彼は、グルジア(今のジョージア)の貧乏画家ニコ・ピロスマニを主人公に、この「百万本のバラ」の物語を託した。この画家がフランスの女優マリガリータに一方的な恋をしたことを描いた。

 加藤登紀子さんは、「神様に娘たちの不幸を訴えた哀しい子守歌が、こうして無限大の恋のラブソングに変わった! この歌から伝えられたのは、何ものにも屈しない愛の強さだったと思います」と『百万本のバラ物語』に書いた。

 この歌を取り上げたのはアーラ・プガチョワだった。反骨のロック歌手であるプガチョワの歌う「百万本のバラ」は、ソ連全土で熱狂的に迎えられて、大ヒットした。その頃に起きたチェルノブイリ原発事故と、それに続いたソ連の激動。彼女の歌声が、ソ連末期の人々の祈り、願い、叫びと呼応した。

 1980年代半ば、加藤登紀子さんは「百万本のバラ」が日本語で歌われているのを聴く機会があった。その日本語詞が気になったので、ロシア語の意味を調べてみると、原曲のストーリーが生かされていなかったという。そこで自分で日本語詞をつけてみたのだ。

 初めて人前で歌ったのは、1985年の年末の恒例の「ほろ酔いコンサート」でのこと。それから、次々とコンサート会場にバラの花束が届くようになったという。1986年に別の歌のカップリング曲として録音された。その年の4月、チェルノブイリ原発で重大事故が発生し、加藤登紀子さんは予定されていたキエフ(キーウ)公演を断念せざるをえなくなった。

 困難であるがゆえにだろうか、加藤登紀子さんのこの歌への思いは強くなり、本気でこの作品に取り組もうと決意を新たにした。1987年、真っ赤なバラをイメージしたジャケットで「百万本のバラ」をシングルのA面でリリースしたのである。

 その時に加藤登紀子さんはスタッフに言ったという。「この曲は売れなくてもいい、私の祈りですから。種を蒔(ま)くように広げたいの」(「百万本のバラ物語」)。

 戦争に翻弄(ほんろう)されたのは歌だけでなく、加藤登紀子さん自身もそうだった。加藤登紀子さんは1943年、中国東北部(満州)ハルビンで生まれた。父親の転勤のために奉天に引っ越したが、1945年に父親が出征、一家はハルビンに戻った。しかし、8月9日、ソ連がハルビンに入城し、満州はソ連の占領下に。それからの一年、住む場所を失い難民生活だった。

 やがて、満州の日本人を本土に帰国させる協定が結ばれて、加藤登紀子さんらはハルビンから日本へ向け出発、1946年、長崎の佐世保に到着後、京都へと向かった。

 加藤登紀子さんが母親、兄、姉とともに東京へ引っ越した1956年、日本とソ連は国交を回復した。翌年には東京・新橋にロシア料理店「スンガリー」を開いた。加藤登紀子さんがレコードデビューを果たしたのは、それから約10年後の1965年のことだった。

 そして初めての海外公演は、1968年のソ連演奏旅行だった。エストニア、ラトビア、リトアニア、レニングラート(現在のサンクトペテルブルク)、ベラルーシのミンスク、モスクワ、スフミの7都市40日間のツアーだった。この旅が「百万本のバラ」との出会いの伏線となっていくのを、当時24才だった加藤登紀子さんは知る由もなかった。

 2022年2月、ロシアがウクライナに侵攻を始めた。加藤登紀子さんは慄然(りつぜん)とし、泣いた。彼女が生まれた時に、ハルビンで共に暮らしていたロシア人、父親が歌っていた「ステンカラージン」、故郷のないロシア人の居場所として両親が開いたロシア・レストランなどが脳裏に浮かび、それまで「ロシア」と呼んでいたものは何だったのかと自問した。

 普通にロシア料理と呼んでいたメニューのほとんどが、実はウクライナ料理だと分かり、ハルビンにいたロシア人の多くがウクライナ人だということもわかってきていた。

ウクライナ支援チャリティCDアルバム『果てなき大地の上に/加藤登紀子』
ウクライナ支援チャリティCDアルバム『果てなき大地の上に/加藤登紀子』

 加藤登紀子さんは、戦火の中で故郷を追われた人たちを支援するため、アルバム『果てなき大地の上に』を制作し、2022年5月に発売した。冒頭は「イマジン」。他にも、「声をあげて泣いてもいいですか」、「花はどこへ行った」、「百万本のバラ」などが収録されている。売り上げは認定NPO法人・日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)(代表・鎌田實さん)を通じて、ウクライナ国内やポーランドに逃れている人々のために使われる。

 「声をあげて泣いてもいいですか」は加藤登紀子さんが2021年に作った歌で「このアルバムに踏み切るきっかけの歌だった」という。また、東西対立が激しく、その代理戦争としてのベトナム戦争が熾烈を極めた最中に、アメリカの元祖フォークシンガー、ピート・シーガーがロシアのドン川のほとりのコサックの子守歌にヒントを得て反戦歌「花はどこへ行った」を作ったことに大きな意味があったと思う、と加藤登紀子さんはいう。

 父親が開いたロシア・レストランの最初のコック長がコサック人で、店で歌い踊った彼らを母親は愛した。その原点を見ておきたかった加藤登紀子さんは、ドン川のほとりのロストフを訪ねたことがある。2018年11月のことだ。加藤登紀子さんは振り返っていう。「素晴らしい街で、料理がすごくおいしかったです。素晴らしいコサックの音楽も健在でした」
 音楽こそ故郷であるとし、その力を信じている加藤登紀子さん。

 「歌の持つ力は、それぞれの歌の運命です。『百万本のバラ』は、特別の運命をたどった歌だと思います。いくつもの国がソ連という国としてたどった歴史が変わろうとした、理想主義の時代。ゴルバチョフの開放政策と、この歌の時代は重なります」

 「その後の歴史が、今の戦争を生み出してしまったけれど、この歌の思いは、あの時の希望に満ちている、と思っています。世界を平和にすることを、国家ができないのであれば、人がしなくてはならない。人はできなくても歌ができるかもしれない。そう思っています」