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【スピリチュアル・ビートルズ】 ジョンを鼓舞したポールの曲「カミング・アップ」

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「カミング・アップ」の日本でのシングル盤

 1980年、5年ぶりに音楽シーンに返り咲こうと準備を進めていたジョン・レノンを鼓舞(こぶ)したのは、かつての盟友ポール・マッカートニーのヒット曲「カミング・アップ」だった。ポールは今でもそのことをうれしく誇りに思うと度々話している。

 ジョンは同年秋に行われたプレイボーイ誌とのインタビューで、ポールの曲「カミング・アップ」について「いい仕事(a good piece of work)だと思った」と語った。

 75年に休業してから5年間の「主夫生活」を送った後、オノ・ヨーコとの共作アルバム『ダブル・ファンタジー』の制作準備を進めていたジョンを、80年6月下旬に全米ナンバーワンにまで昇りつめたポールの最新ヒット曲が刺激したらしいのだ。

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「ポール・マッカートニー告白」(ポール・デュ・ノイヤー著/DU BOOKS刊)

 ポールは「どうやらジョンはニューヨークでこの曲を聞いたらしい。ジョンのドキュメンタリーを見ていたら、だれかが『ポールのレコードを持ってきて、ジョンに聞かせた』と話していたのだ。するとジョンは『ちくしょう、やりやがったな。オレも頑張らないと!』となってね。うれしくなる話じゃないか。つまりぼくが彼のお尻を押したのだよ」(ポール・デュ・ノイヤー著「ポール・マッカートニー告白」DU BOOKS)。

 そしてポールは続ける。「ぼくがこの話を好きなのは、ぼくらがいつもお互いに、そういうことをしていたからだ。なにかを聞かされるたびに『ぼくもがんばらなきゃ!』となっていたし、それはとても素晴らしいことだ。みんなはぼくらのことを一番のライバル同士みたいに思っている。でもそうではなかった。ふたりで切磋琢磨していたわけで、実際の話、それは絶対に欠かせない要素だった」。「ぼくはこの関係を、とても誇りに思っている」。

 ライバルであり、同志でもあり、実の兄弟のように愛し合っていた2人だが、ビートルズ解散後は関係が緊張した時期もあった。「解散」をめぐってのいざこざを背景に、ポールは自身のアルバム『ラム』(71年)の「トゥー・メニ―・ピープル」などでジョンを揶揄(やゆ)した。これに対してジョンはアルバム『イマジン』(71年)収録の「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」で手厳しい反撃に出た。「君がやったことは“イエスタディ”だけ。君が去ってからは、ただの日(アナザー・デイ)にすぎない。どうやって君は眠るのだい?」。

 ジョンはポールのビートルズ時代の代表曲とソロ第一弾シングルの作品のタイトルを使うとともに、目の大きいポールを「どうやって眠るのだい?」とからかうビートルズの仲間内でのジョークを冠したこの作品で痛烈にポールに「やり返した」のだ。

 ポールはその時はさすがに傷ついたらしい。だが振り返ってみれば「兄弟げんか」のようなものだったのかもしれない。

 70年代初め、温厚なリンゴ・スターを中心にジョン、ジョージ・ハリスンの3人は交友があった。一方、ポールとジョン、ポールとジョージの関係には難しいものがあった。

「ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド」(メイ・パン著/河出書房新社刊)
「ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド」(メイ・パン著/河出書房新社刊)

 だが、ジョンが当時の愛人メイ・パンとロサンゼルスで暮らしていた73年秋から74年初夏までの間、彼らが借りていたロサンゼルスはサンタモニカの家にリンゴとともにポールもちょくちょく顔を出すようになっていたという。(メイ・パン著「ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド」河出書房新社)。

 同書によれば、ジョン、ポールとジョージの3人が一堂に会したのは74年師走、ビートルズが「法的に解散」することが決まった時だった。同年12月19日、ニューヨークのプラザ・ホテルでの会議にポール、ジョージ自身が多くの弁護士らとともに出席した。リンゴは欠席。同じくニューヨークにいたジョンも欠席したが、それがジョージを怒らせた。翌20日、ジョンの長男ジュリアンがジョージのコンサートに行ったのだが、ジュリアンが電話でジョージのメッセージをジョンに伝えてきたのだ。「すべて水に流そう。きみたちのことが好きだ。今夜のパーティにみんなで来てほしい」と。

 メイは続けた。「私たち(ジョンとメイ)はヒポパタマス・クラブで開かれたパーティへ出かけ、ジョンとポールとジョージは抱き合って再会を喜びました」。

 それから約5年。『ダブル・ファンタジー』そしてジョンの死後世に出た『ミルク・アンド・ハニー』の楽曲をレコーディング中のジョンはビートルズについて多弁だったという。

 80年の8月の第一週にニューヨークのヒット・ファクトリーというスタジオにジョンとヨーコが入り制作を開始した。プロデューサーだったジャック・ダグラスは家が近かったためジョンと一緒によく車で帰ったという。「いろいろと昔話をしていたね。ラジオをつけていてビートルズの曲が流れたりすると、その曲の話をしていた。ビートルズはジョンのバンドであり、彼はあの3人のことが大好きだったということを、改めて思った」(ケン・シャープ著「メイキング・オブ・ダブル・ファンタジー」シンコーミュージック)。

 そしてアレンジャーのトニー・ダヴィリオによれば、ジョンは67年のビートルズの傑作「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を再録音したがっていたという。ジョンは言った。「トニー、次のアルバムでは“ストロベリー・フィールズ”をやり直したいのだ」。そしてジョンはギターでシンプルに弾き語ってくれ、今度は「サイケデリック色を少なくしたい」と語っていたとトニーは回想する。

 ポールの言葉に戻ろう。「ぼくがうれしく思うのは、ぼくらが結局、最後の何年かで仲直りできたことなのだ。これはぼくの人生で起こった幸運な出来事のひとつだろう。本当にありがたく思っている。だってもし仲たがいしたままで、ああいうこと(80年12月のジョンの死)になっていたら、ぼくは今ごろ、ボロボロになっていたはずだからだ」。

(文・桑原 亘之介)

 


桑原亘之介

kuwabara.konosuke

1963年 東京都生まれ。ビートルズを初めて聴き、ファンになってから40年近くになる。時が経っても彼らの歌たちの輝きは衰えるどころか、ますます光を放ち、人生の大きな支えであり続けている。誤解を恐れずにいえば、私にとってビートルズとは「宗教」のようなものなのである。それは、幸せなときも、辛く涙したいときでも、いつでも心にあり、人生の道標であり、指針であり、心のよりどころであり、目標であり続けているからだ。
 本コラムは、ビートルズそして4人のビートルたちが宗教や神や信仰や真理や愛などについてどうとらえていたのかを考え、そこから何かを学べないかというささやかな試みである。時にはニュースなビートルズ、エッチなビートルズ?もお届けしたい。