エンタメ

【スピリチュアル・ビートルズ】ポールはプーチン大統領に裏切られた? 新刊『シベリアのビートルズ』などで読む、かの国のロックファンの思い

『シベリアのビートルズ』(多田麻美著/亜紀書房刊)
『シベリアのビートルズ』(多田麻美著/亜紀書房刊)

 ポール・マッカートニーはウラジミール・プーチン露大統領に裏切られたと思っているに違いない。2022年2月下旬、ロシアによるウクライナ侵攻により始まった戦争。それを機にポールはコンサートのセットリストから「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」を外した。

 また、コンサートの終了後、ステージに戻って来たポールはウクライナ国旗を振って同国の人々への連帯を明らかに。また、ギブソンが製作したウクライナ国旗の色をあしらった特別のギターを、ポールは同国支援のためのオークションに出品した。

 2003年5月24日、ポールはクレムリンでプーチンと会談した。その席でプーチンは「ソビエト時代、ビートルズとは新鮮な空気を吸うようなものだった」と発言した。ソ連当局は、ビートルズの音楽を「相容れないイデオロギーのプロパガンダ」としていたが、この発言はかつてKGB(国家保安委員会)のエージェントだったプーチンの一種の「告白」だった。

 ポールがプーチンと会ったのは、ロシアにおける初めてのコンサートを赤の広場で行う直前だった。聴衆は10万人だったという。MKニュースは「赤の広場で感動しなかったのはレーニン(像)だけだった」と粋(いき)な評価をした。ポールは2004年6月には、プーチンの出身地サンクトペテルブルクの宮殿広場でも公演を開いた。

 ソ連当局はビートルズをはじめ西側のロックを「退廃的」だとして禁止していた。だが、音楽は「鉄のカーテン」を越えていった。ソ連の若者たちの多くはロックなどの西側音楽を渇望し、短波放送を密かに聴いたり、肋骨や頭蓋骨が写ったX線フィルムを再利用して音の溝を刻み込んだ「あばら骨レコード」が流通したりした。

 そのあたりの事情は、アルテ―ミー・トロツキー著『ゴルバチョフはロックが好き?』(晶文社)に詳しい。まずはビートルズ前夜のこと。ソ連で最初にヒットしたロック・ナンバーは、ビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」と「シー・ユー・レイター、アリゲイター」だった。エルビス・プレスリーはビル・ヘイリーより人気がなく、「ラブ・ミー・テンダー」などのバラード曲で知られるだけだったという。

 そんなソ連の音楽シーンに大きな衝撃を与えたのはビートルズだった。モスクワ・ロックの最古参アレクサンドル・グラツキー(1949年生まれ)は次のように言った――「あのころは自分が何を歌いたいのかわかっていなかったんだ。そして1963年、初めてビートルズを聴いた。ものすごいショックでヒステリー状態になった。ビートルズの歌に、すべてが集約されていた。それまで聴いた音楽は、あのときのための準備でしかなかった」。

 コーリャ・バーシンという人物も「この世のものとは思えないほどすばらしかった。喜びで心がいっぱいになって、どうしていいかわからなくなった。何年間も蓄積されていた憂鬱(ゆううつ)や恐怖が一時に消えていた。そしてビートルズ以外のものはすべて、押しつけられたものでしかなかったことに気付いた」と語った。

 「ソビエトのロック・ミュージックはビートルズを聴いたときから始まった・・・ブラック・ミュージックの影響の大きい激しいリズム、速いテンポ、シャウトするボーカルやセックスを強調した歌いかた――それもとても素晴らしく、新しいダンスにはうってつけだった」とアレクセイ・コズローフという人物は証言した。

 同書によると、「ビートルズの陽気なハーモニーは、まさにソビエトの若者が待望していたものだった」、「彼らの歌にはすべてがあった。歓喜、リズム、美、自然さ――長いあいだ、孤独なロシア人たちが飢えていたもののすべてが、たとえば『シー・ラブズ・ユー』という一曲のなかにこめられていた」、「ビートルズの出現は、(世代間)ギャップをさらに拡げた。受け継がれてきた同一の文化を共有することによって保たれてきた世代間の連帯意識が崩壊した」、「若者たちは初めて自分にあった自己表現の形をみつけた」。

 次第にソ連にもロック愛好者たちのコミュニティーが形成されていった。ダンスに集まった場所で、ビートルズの写真などが交換された。地下産業すなわち闇のマーケットが発展し、ビートルズのLPの闇値が20~30ルーブルする一方で、テープならば3ルーブルで入手できたという。大都市ではアマチュア・ビートグループが生まれていった。

 ソ連で広がりをみせていったビートシーンは不思議なことに規制されなかったという。それは公的な文化機関とは関わりのないところに存在していて「文化省のどの部門も関心を示さず、民警までが正面からの対決を避けていた」(同書)。

 ビートルズが最初にソビエトのメロディア社を通じて紹介されたのは1967年だった。この年に売り出された世界のヒット曲を集めたアルバム『音楽のカレイドスコープ』にビートルズの「ガール」が収録されていたからだ。当時、彼らの音楽は「人民の音楽」と銘打たれて売り出された(多田麻美著『シベリアのビートルズ』亜紀書房)。

 同書によると、その後にビートルズの曲だけを集めたアルバムが発売され、ジョン・レノンとポールについてはさらに’74年以降、それぞれ3、4曲を収録したレコードが発売された。また、ソロ・アルバムは、’77年にジョンの『イマジン』とポールの『バンド・オン・ザ・ラン』が、ソ連風に「声楽と器楽のアンサンブル」として発売された。

 しかし、当時のソビエトではロックは西側の腐敗した音楽とされており、イデオロギー上、ロックグループと呼ぶことは禁止されていた。それが変化するのは、ミハイル・ゴルバチョフが1985年にソ連の最高指導者となってからのことだ。

写真左、『ゴルバチョフはロックが好き?』(アルテーミー・トロイツキー著/晶文社刊)。写真右、DVD『Paul McCartney in Red Square』(Warner Music Vision)。
写真左、『ゴルバチョフはロックが好き?』(アルテーミー・トロイツキー著/晶文社刊)。 写真右、DVD『Paul McCartney in Red Square』(Warner Music Vision)。

 ゴルバチョフは「再建」を意味する「ペレストロイカ」を提唱、「グラスノスチ」とよばれる「情報公開」を進め、「新思考外交」を展開、ソ連の変化をけん引した。

 藤本国彦著『365日ビートルズ』(扶桑社)によると、1986年3月29日にビートルズのアルバムがついにソ連で初めて公式発売された。またポールは、88年にソ連限定でのアルバム『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』を発表した(91年に全世界でCD化)。

 ソ連の変革に伴ってビートルズをはじめとする西側ロックを本格解禁したゴルバチョフとポールはロシアで会ったことがある(DVD「Paul McCartney in Red Square」Warner Music Vision)。ポールはゴルバチョフと握手し、「あなたは偉大な男だ」と讃えた。

 プーチンが豹変(ひょうへん)あるいは彼の化けの皮が剥がれるとともに、ゴルバチョフが亡くなった2022年。ウクライナ戦争下、情報の統制は強化され、始まったばかりのストリーミングサービスも停止され、影響力の大きいいくつかのSNSもブロックされた。「現在は「ソ連」への回帰どころではなく、それ以上なのだ」と多田麻美さんは前述の本の中で書いた。

同著は多田さんが、ロック音楽全般に詳しく、大のビートルズ・ファンであるパートナーのスラバ・カロッテさんについて書いた作品だ。

ロシア盤の『バック・イン・ザ・U.S.S.R./ポール・マッカートニー』(写真左)と『ハード・デイズ・ナイト/ザ・ビートルズ』(写真右)。
ロシア盤の『バック・イン・ザ・U.S.S.R./ポール・マッカートニー』(写真左)と『ハード・デイズ・ナイト/ザ・ビートルズ』(写真右)。

「そんな今だからこそ、私は一縷(いちる)の希望に賭けてみたい。つまり、ロシアをめぐるすべてを壁の向こう側に追いやるのではなく、音楽やアートを通じて、互いの中に共通点や理解し合える点を見つけられる可能性に」

「ビートルズにのめり込み、その音楽を聴き漁ったスラバの青少年時代の話を聞けば聞くほど、文化の間に築かれた壁を越えられるかどうかは、壁そのものの厚さ以上に、壁を越えようとする意志や情熱の問題なのだと感じられてくる。それは文化に限らず、人間が互いを理解したいと思う気持ちと同じに違いない」

「魂のこもった音楽や芸術作品は、どんなに血なまぐさい時代でも、国境の壁を越えて、静かに人々の心に響く。その力を信じ、それを分かち合える人々の力を信じること。それが、今も私がイルクーツクに拠点を置き続けるためのエネルギーとなっている」

文・桑原亘之介